2008年5月21日、四川省を襲った巨大地震で、中心地がブンセンと知って胸が騒ぎました。
12年前、世界遺産の前後 九寨溝と黄龍へ取材した折、途中一泊した町の名でした。
朝市の賑わいが印象的で、あの巨大なヤクが、その場でさばかれていました。
(写真:人民医院前広場での朝市)
町はずれで遊んだ子どもたちです。
20才ぐらいに成長しした彼らは、どうしたでしょう?
この地震で真っ先に思い出したのがこの子たちでした。
岷江(ミンコウ)に沿った8時間余りの崖っぷちの道は命がけでした。
目の前に起こった崖崩れで、一車線の道幅は身動きできず、2度、
車中泊を余儀なくされました。
そんな時、近くの村人たちがカップ麺とお湯を売りに来てくれます。
お湯が無くなると川の水を汲んできて七輪で湧かしてくれます。
腹も壊さず、美味しく頂きました。
翌朝、崩れる土砂の中をくぐり抜けて、反対側の車に乗り換えました。 地震がなくても、恐ろしい道中でした。
3年前、榎木孝明さんと訪れた成都パンダ繁育研究基地のパンダたちも被害にあったそうですね。
この時描かれた榎木さんのスケッチをご覧に入れたいのですけれど、それは榎木さんのホームページで・・・
九寨溝と黄龍、ケシ科の花も満開でした
まずアジアが一つにならなければならない、日本がアジアのリーダーにならねばならない。
と 日記の最後に熱っぽく書かれている。
1960年(昭和35年)東京タワーが建ち、社会党の浅沼稲次郎が右翼の山口二矢(17才)に壇上で刺殺された「60年安保」の年だ。
NETテレビ(テレビ朝日)の森繁久弥世界漫遊で、欧州12カ国を廻った。
ボクの役割は、カメラ助手(TV白黒)・カメラマン(カラー教材)・制作補・演出補・録音・ライトマン・スチールそして少々頼りない通訳という とんでもない仕事だった。 25才、アマチュアだった。
<ボクだから出来た!>と今でも自負している。
締め切り間際、20数人のプロの中から選ばれた。
(写真:左から 森繁久弥・P柴田万三・C吉田重業・AC三上ゆうせい・25才)
決まった二週間後には、DC7のプロペラ機で、アンカレッジ経由で酒池肉林のハンブルグ・レーパーバンの夜の町に立っていた。
勿論 今で言うコーディネーターなんて便利な案内役は どこにもいない。大使館や銀行、商社を頼り 現地に住んでおられた戦争花嫁さんにも助けて貰った。
ローマでは 飛び交う<卑猥な日本語>に驚いた。ローマオリンピックで日本人が教えたコトバ、「なんて日本人はバカなんだろう」と、ここで陥った自虐の気持ちが、未だに僕の心の中に強烈に巣食っている。
ポーランドでは 通学する小学生から「中国人?」と尋ねられ、「日本って知ってる?」 すかさず返ってきた少年の言葉「日本は2000年の歴史があるんだよね。アメリカと違うんだね」 以来、僕はポーランドのファンだ。
東西ベルリンの壁が出来る一年前だった。
ブランデンブルグ門からの出入りは 観光客と東ベルリンの住民には緩かったが、東ベルリンと東ドイツの国境の厳しさは、当時はまだ知られていなかった。スタッフをホテルに送り込み、再びブランデンブルグ門から ひとりTAXIで潜入、東西ゲートの警備の模様を撮り、スクープとしてニュースで流れた。 僕のジャーナリストとしての初仕事だった。
運転手さんへのチップはSONY坊やのマスコット、飛び上がるほど喜んででくれた。
その頃、ヨーロッパの町を歩く日本人は「ミスター・ホンダ」と声をかけられ、SONYのトランジスタ・ラジオが、ここ欧州では恋人へのXマスプレゼントだった と聞く。
朝早く着いたロンドンでは、チェックインしたホテルで朝食を頼んだら、私はお腹が空いたと3度言えと言われ、スタッフの手前その通りにして朝食にありついた。 この屈辱は一生忘れない。
取材で入ったストリップ小屋で、カブリツキに陣取ったシルクハットを膝にのせたイギリスのエセ紳士たちの姿も一生忘れないし、発音が悪いと言って売ってくれなかった たばこ屋のばあさんは、英国を代表する悪魔の顔になっている。
この時 英国には二度と来たくないと思ったが・・・
夜のモナコでは、残り少ない制作費を使い果たしたプロデューサー。
森繁さんに書いてもらった3枚の色紙で東京銀行から500ドル拝借、「これはオレの金だ」と 余りにも辛いロケに 夜のニースの海岸で号泣した。
(写真:サンタルチアのカフェで森繁久弥 47才)
このままフランス人になりたかった、と 今でも悔やむことがある。
『日本はアジアのリーダーにならなければならない』、25才の時と同じ思いを今も持ち続けている。 近隣の国からこそ 真に信頼されたい。
20年ほど前、6人の中国人留学生の保証人を引き受けていた。
「友達の友達はみな友達」朋友(ポンヨウ)という慈愛に満ちた言葉がそうさせたのかもしれない。
そして、「再会・ツァイチェン」と言う友愛に満ちた言葉を貰うことなく、そして、誰もいなくなった。
10年ほど経ったある日、「東方大学城・開校記念祝賀会」と言う招待状が中国から届いた。総経理(理事長)の名前を見て驚いた。留学生の中で最も手を焼かせた男だったのだ。更に、祝賀会の後、ボクの妻が昔住んでいた旧満州への招待までしてくれると・・・・。 妻が一度行ってみたいと言っていたのを憶えていてくれたのだ。
男の名前は<金衛華>、ボクが始めて中国を訪れた時に通訳をしていただいたご婦人<金黙玉さん>の養子に当たる男だた。
金黙玉は かっての名前は「愛新覚羅顕琦(あいしんかくら・けんき)」ラストエンペラー溥儀の姪に当たる<清朝の王女>だ。
すぐ上の姉、東洋のマタハリとして知られた男装の麗人・川島芳子は銃殺刑に処せられ、顕琦さんは、日本と通じていたと言う罪状で15年間牢に入れられ、出獄すると思想改造農場で7年間の強制労働を課せられた。
22年間に亘り無実の罪に泣かれた方だ。 服役中、獄中から、日本との交流の役に立ちたいと周恩来に直訴し、晴れて名誉回復された翌年の出獄後、はじめて日本語を交わしたのが<日清食品・中華三昧>CM撮影隊の私たち日本人だったのだ。
「アイシンカクラって名前知ってる?」と問われ 思わず、えゝ、知ってます、と最初に答えたのがボクだった。台湾に5年間住んでいたので、中国にはかなりの関心を持っていたからだろう。この時 珠玉の出逢いを頂いた。
以来、来日の折には 時折 我が家へお泊まりいただく程の嬉しい朋友にさせていただいていた。
2年前、ハーモニカ演奏家・波木克己氏と中国にあそんだ折、 昔、折角の招待を受けながら行けなかった東方大学城を訪れた
巨大な敷地を持つ大学には、医学学校から航空学校までの大学生8万人が、学園内を闊歩していた。
学園に足を踏み入れた波木氏との最初の言葉は 「あゝ 日本は追い越されるな!」 後は沈黙が続いた。
こんな学校を作ってしまったあの男に改めて驚き、あんな男にこんな途方もない学園が作れる中国に憧憬とジェラシーを憶えた
私たちは、この<学びの楽園>に1週間、アッという間の夢のような朋友としてのおもてなしを頂戴した。
「清朝の王女に生まれて」を中央公論社から上梓、予想外のロングセラー(失礼!)で売り上げた印税700万円は 殆んど在日の中国人留学生に分け与えられていた。
「優れた中国人に より優れた日本の教育を受けさせたい」という顕碕さんの願いは、過去の獄中での苦しみに耐えられた原因を、「嘘をつくな、悪いことは謝る、正しいことはやり通す」と言う人間の芯を鍛える日本で受けた教育のお陰だった…と今もはっきり言われている。
学習院、日本女子大で 戦中の日本教育を受けられている。
そして養子に貰われ、運命の境遇を得て<夢の学園建設>を成功させた金衛華は この崇高な養母の想いに応えるためだった、とボクは思っている。
日本を終の棲家にしたいと、25回目最後の訪日を予定されていた日が 東日本大震災の二日後だったとは!
数奇な運命に生きた彼女への 天が与えた最後のドラマは 果たして吉だったのか凶だったのか?
愛新覚羅顕碕さん95才(1917年生まれ)は、北京市内で孫、曾孫と4世代でお元気に過ごされている。
2013.9
2007年 事故から21年 尺八演奏者き乃はち一行のチェルノブイリへの鎮魂の旅を取材した。
爆発した四号炉近くの記念碑で、1時間半の滞在を許され2時間半を越えた私たちは、被曝するからと厳重な注意を受けた。
周囲の草むらは 持参した計器では間違いなく5マイクロシーベルトを越えていた。
事故から既に21年が経っている。
原発に最も近く、死の街と化した<プチピャチ>では 希望した僕ともう一人が、限られた15分を歩いた。
廃墟は盗賊に荒らされ 居間には家具など何一つ残されていなかった。
間近な林を通る時 車は猛烈な勢いで走り過ぎた。
車から計る計器の数値は どんどん上昇し続けていた。
カメラを持つ僕が もう少しゆっくり走ってくれと頼んだが、ドライバーは「あなた方は今日だけだが 私は月に何度も通るんだ、勘弁してくれ!」と叫んだ。 さもあらん…と納得した。
樹木にからみついた放射能は 減るどころか間違いなく増えているそうだ。
30kmの管理地区を出る時 2度の被曝検査を受け、僕だけが3度の除染を受けたが 最後に靴を放棄させられた。
撮影するため柵の外に出て草むらに入った為に 都会には戻れない放射能が靴に付着していたのだ!
福島をはじめ日本列島に充満している放射能から逃れるため
私たちには ≪ この国で靴を脱ぐという選択肢 ≫を持てない!
原発から6OKm離れたスラブチッチ市を訪れた。
プチピャチの住民がここへ移され、健康管理と病魔との闘いを余儀なくされた彼らのデータが 欧州各国の研究者の手で収録されている。
モルモット達の集落と化した街は 丁度お祭りの最中だった。
放射能を思いっきり浴びた両親から生まれた子ども達が、元気に歌い踊っていた。 彼らの将来は???
ここでも 「直ちに健康には影響はありません」 と聞かされているのか?
チェルノブイリの事故では 消防隊員28名が命を落とされた。
その時亡くなられた隊員の夫人と原発で働いていた元職員から話を聞いた。
その時非番だった元職員は、すぐ戻れるからと言われ、家族と迎えのバスに乗せられたまま、二度と家に戻ることは出来なかった。
そして 当時6才の子供は甲状腺癌にかかり 治療中だと言う。
日本では技術が進んでいるから このようなことは無いだろうと言われ、すかさずそんなことはない、5年以内には必ず起こるだろうと
カメラを廻しながら言葉を返した。
その5年後が はからずも2011年だった。
起こるべきして起こった. 神の国と拝金の国に奢りまくるこの国への必然の天からの戒めだと思っている。
消防隊員の夫を失った夫人は、モスクワに入院した夫にも面会出来ず、2週間後に死んだ。結婚3年目だった。
現場で2人が死に、病院で28人が死んだ。
「核はナイフのようなものです。パンを切ることも出来るし、人を刺すことも出来ます。」 と 最後に彼女はつぶやいておられた。
国破れて山河在り、城春にして草木深し ー757年・杜甫ー
どの時代に どこの国の人が読んだ詩か 静かに考えてみたい。
闘いに破れ疲れ帰った兵士でさえ 1300年前の隣人は このような豊かな感性を持っていた。
今 私たちのこの国は、山河草木を自らの手で亡くしてまでも 只々 拝金に溺れ 汚れた株券を掻きながら悶え死に・・
やがて「国際汚染廃棄物処理列島」 への道を歩み続けている。